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恐竜、ヒト、ピラミッド♪ [面白いなっ歴史考察♪]

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いきなりですが、
恐竜が、地球の覇者だった時代がありました。

恐竜は、爬虫類が進化したものが一般的ですけれど、翼竜とか魚竜もいたといいます。
ダイナミックな骨の化石を、見たことがあると思います。
おぉっ!でっかいなぁ、なんて思います。

人間は、恐竜に比べるとちいさな生物です。
もしも、何億年もの先の未来で、ヒトの骨が化石として出土したとしても、ほんの1m~2m程の大きさでしょう。
恐竜の骨の化石は、それとくらべると、非常にダイナミックです。
恐竜の存在が、すでに、ダイナミック。
私達、ヒトは、
骨以外のところで、アピールするほうがいいかも知れません。

それには、大きくて丈夫な建造物かなにかを建てるのがいいのではないかと、ふと思うわけです。
ヒトの知恵と技術力の結晶として、後世に残るものをつくる。

いくら、今の記録を、紙に残しても、石に書いても、言い伝えても、メモリディスクに残しても、
後世のヒトたちには、文字が伝わらないかも知れません。映像や音声を再生できないかも知れません。
また、厳重にしまいすぎて、見つけてもらえない可能性もあります。
天変地異が起きても大丈夫で、文明の高度さが、一目瞭然で残るものを、つくる必要があります。

ひょっとして、古代のヒトは、そんな意味をこめて、ピラミッドを建てたのかな。
あれを分析すれば、過去に高度な文明が栄えていたことが、わかるヒトには、ちゃんとわかるように。
現代のヒトが滅びてしまっても、後世のヒトへのメッセージとして残るように。

ピラミッドの謎が、解ける日は、来るのかな。

高度な文明は、やがて滅びて風化してしまうのが、時の習い。

そう、この日本だって、5000年後には、どうなっているかわかりません。
もし、日本人の手によるものでダイナミックなものが、
後世遺跡として残っていくとすれば、何が残るのでしょうね。
反対に、何を、残すべきかを、考えるのもおもしろいです。
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2008-03-08 01:12  nice!(1)  コメント(0) 
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日本の歴史における書物の取扱いについて [面白いなっ歴史考察♪]

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日本人は、古来から、書物を大事にしてきました。
現代では、何かを読むことや書き記すことなどにおいては、星の数ほどありそうなブログが、その役を担ってくれていますね。
誰かに何かを伝えたい気持ち。
そういう気持ちは、時代を超えても一緒じゃないかなって、思うのです。

日本の国史が記された、現存する一番古い書物は、「古事記」と「日本書紀」だといわれています。
645年の大化の改新以後、天武天皇の時代8世紀に編纂されました。

記録によればそれより1世紀程さかのぼった飛鳥時代に、聖徳太子と蘇我馬子が、二つの書物を編纂しています。
620年(頃)の 「天皇記」「国記」です。
これらは、大化の改新の折、蘇我蝦夷の邸宅で焼失したとされています。
「国記」だけが、焼け出されて、中大兄皇子に奉献されたと日本書紀に記述があるのですが、こちらも現存していません。

それから、60年程後に、
川島皇子、忍壁皇子(後の刑部皇子)らが編纂した「帝記」があります。
「帝紀」(ていき)とは、勅命により編纂された書物で、天皇家の系譜の伝承を記したものと考えられています。
その昔、日本には文字を書く習慣がなかったためなのでしょう。
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  初代天皇から第33代天皇までの名、
  天皇の后妃・皇子・皇女の名、およびその子孫の氏族など、
  このほか皇居の名・治世年数・崩年干支・寿命・陵墓所在地、
  およびその治世の大事な出来事など。
                          9475036.gif                        
上記の内容を、朝廷の語部(かたりべ)などが代々暗誦して、天皇の大葬の殯(もがり)の祭儀などで誦み上げていたのだそうです。
う~んなんか、大変そう。11135875.gif
それが6世紀半ばになると文字によって書き表わされたというわけです。
つまり、中国から、漢字が伝来してから、文字に書き表すようになったというわけですよね。

それが、古墳時代から飛鳥時代にかけてのことでした。

聖徳太子亡き後、大化の改新の時、中大兄皇子と中臣鎌足らによってクーデターがおき、蘇我氏が滅ぼされました。
そのとき、せっかく太子らが編纂した「天皇記」「国記」がなくなってしまったのですね。
それらが残っていたなら・・・と思います。(今ならコピーで量産できるのに!)

推古天皇と聖徳太子については、記述を読むと、権力争いよりも、政治をきちんと行いたいという意識を持っていた方々だと見受けられます。
蘇我馬子は、同じ時期に大臣をしていた物部氏を滅ぼしたという恐るべき蘇我氏ですから、常に天皇の座を狙っていたに違いありませんが、この時期、推古天皇と聖徳太子に、うまくまるめこまれていたのでしょうか。

聖徳太子が、編纂に携わっていた書物のほうが、確実だったんじゃないかと思うのです。(単なる私の考えでは)
20歳で摂政に任命され、「憲法十七条」「冠位十二階」を制定した太子は、「和をもって尊しとなす」の精神で国をおさめようとした人です。←あまりにも有名ですネ!
天才的に優秀かつ手腕に長けた人だった太子は、戦さで成りあがったのじゃないのです。

その後、クーデターを起こした中大兄皇子が天武天皇となって即位し、律令制度の基盤をつくりました。
天武天皇亡き後は、皇后の持統天皇が仕事を引き継ぎ、藤原不比等や刑部(おさかべ)親王らとともに、
701年、「大宝律令」を定めました。

大宝律令の原文は現存しておらず、一部が逸文として残っているんだそうです。
そうして、律令政治によって、刑罰の取り決めや行政の整備などをどんどん推し進めていったのですね。
国民は、ますます取締りが厳しくなり、大変になっていったわけです。

そして、8世紀からは、たくさんの側近たちが、いろいろと書物を書いています。
政治が整えば、書物も残っていくものなのかなぁと感じます。

古墳~飛鳥時代を皮切りに、
8世紀からは、文字の文化が広まり、書物が後世に残せるまでになりました。
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よかったです。
しかーし!安心してはいられませんよ。

弥生時代以前がわかりません。
弥生時代には、まだ文字が伝来していなかったのですから、書き記す文化もなかったといわれています。
でーもでもでも、ちゃんと、大和政権なるものがあったのですから。
普通に考えたら、何か残っているはず。
国の政治の記録は、とっておいて欲しいものです。
文字じゃなくても、口承といった形でもいいので。

幸い、中国の史書に、日本の記述があります。
~「漢書地理志」「後漢書東夷伝」「「魏志倭人伝」「宋書倭国伝」より~

57年   奴国(日本)の王が、後漢(中国)に使いを送る
107年  倭国(日本)王の帥升が、生口(奴隷)160人を(中国へ)献上する
239年  邪馬台国(日本)の卑弥呼が魏(中国)に使いを送る
  ~   その後、男の王がたったが、国(日本)は乱れる
 卑弥呼の一族の少女、壱与(いよ)が13歳で王となる
400年(頃)
  ~   倭(日本)の五王(讃・珍・済・興・武)が、南朝(中国)に朝貢する 
      渡来人が多く住み着く
      各地の豪族が古墳をつくる
      漢字の伝来
      大和政権(日本)が朝鮮半島に進出する

以上のようなことが、おおまかな記述です。
おおまかではありますが、弥生時代は、決して平静ではなかったのがわかりますね。
中国との外交あり、戦あり、内政の悪化があったことなどが、読み取れます。
奴隷を送るだなんて、ひどい政治ですよね。

日本のあちこちに、古墳や遺跡があります。
そこから、土器や装飾品や木簡などが出土しています。
そういったものをきちんと保存して、各々の年代の裏づけをとっていくのが、考古学者の方達の頑張りどころですね。
日本は、1世紀頃から、国としての型があり、中国と交流を行っていたわけなのですから。
くどいようですが、何かしらの記録をとっていたはずです。
普通に考えたら。
それが、ないというのですから、おかしいな~!歴史ミステリーです。

本当にくどくてすみませんが、「古事記」にも「日本書紀」にも、邪馬台国の記述がないというのは、明らかにおかしいと思うのです。
天武天皇の時代には、すでに、邪馬台国のことなんて、話題にもしなかったということでしょうか。
あるいは、天武天皇の側近たちにとって、あまり書かないほうがいいような、談合でもあったのでしょうか。
卑弥呼のような、巫女さんが女王だったり13歳の女の子が即位したことを、残しておきたくなりませんでしょうか。
なんで、ちゃんと残しておいてくれなかったかな~。
でも、結構現代の日本には、少女が世界を救う的な発想って続いてる気がします。(DNAの記憶かな)
それに比べると、神話のほうは、充実していますね。

縄文時代は、自然崇拝の世の中で、祭りを行いながら狩猟採集生活をしていたといいます。
弥生時代になるにつれて、巫女さんが台頭していった経緯については、
はじめは、神さまからのインスピレーションを伝える役割に過ぎなかった巫女さんが、
段々神さまと同一視されてあがめられるうちに、本人達が勘違いして、権力をもつようになったのじゃないかなぁと思います。
そして、人々がより集まって、邪馬台国建国にいたったのではないかなぁと。

あるいは、大勢が寄り集まって暮らすことになっていったのは、気候の変動がきっかけだったかも知れません。
きちんと、ある程度計画性を持って、暮らしていくことの便利さに気がついたのかもしれません。
稲作も始まっていますしね。

そういえば、不思議なことがあります。

弥生時代よりももっと前の縄文時代の遺跡から、墨で文字が書かれた土器が出土されているのです。
それに、おそらく学者さんたちからは認められていない、偽書だといわれている書物も秘かに現代まで伝わっています。
それらは、弥生時代以前、おそらくは縄文時代以前に、日本古来の文字(神代文字、阿比留文字など)で書かれたものを、書き移したのだということです。

「九鬼文書」「竹内文書」「物部文書」など、今では、本屋さんにもたくさん出ています!!!
アカデミズムからは、無視されているそうですが、こちらの本にも、真実はあると思います。
そうでなければ、そんなに昔から大事に守られて伝えられてきた意味がわかりませんもの。

そうでしょ、そうでしょって、思います。
日本のルーツには、知られざるもの、隠して大事にしておかなくてはならないものがあるということが、
書物ひとつとってみてもわかります。
大事な書物を、焼失するだなんて、これは怖いけれど、偶然ではないなぁって思います。
陰謀?めいてます。

でも、現代は、コピーして量産できる時代ですし、ネットに流布されれば、まずすべてを消去することは不可能です。
こちらも、怖いことではありますが、真実と偽りを見極める心をもって、接すれば大丈夫だと思います。
情報は、ひとつでも、多いほうが安心です。
あ~現代に生きているなぁと、つくづく思います。

文字があるということは、今現在のみならず、未来の人にとって、重要になってくるんですよ、きっと。
だから、紙もいいけど、石とかに書いておくのが一番残る気がします。
あぁもしかして・・・だから、石碑ってあるのかも知れないですね。
石碑も、書物の一種ですね。










2008-03-03 17:52  nice!(0)  コメント(1) 
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